昭和51年1月4日


  御神訓  一、信心する人の、真実の神徳を知らぬこと。

  神様の御恩恵とゆうことが、本当に分かっていないという、信心する人のと、こういう、お話を頂きますが、生きていく上に必要な、神様のお恵みとゆうもの、皆、それは神徳の現れであると、そこまでは、皆が分かっているのですけれども、その御恩恵を御恩恵と感じきれない人が、または、部分があるです。
  言うならば、神様のお心の広さ、深さが分からせてもらわないと、御恩恵に浴することができません、信心する人の、真実の神徳を知らぬ事。
  これはね例えば、最近言われる、金光大神の世界と、言われること、金光大神の世界に、本当に住まわなければ、分からんのじゃなかろうかと思う。
  信心する人の、真実の神徳を知らぬこと。信心によって金光大神の世界が、こんなに広くて、深くて、有り難いものだとゆうこと、
  まあ、あれもおかげであった、これもおかげであったと、分かるようなると、本当の信者だと言われる。それもおかげであった、これもとゆうところがです、ね、大変範囲が狭いように有る、これもと言う範囲は非常に広いのです。

  たとえばねキリストの世界がある。釈迦の世界がある。やはり、信心は、信心であっても、信心する人の、真実の神徳を知らぬこと、とおっしゃるが、本当に真実の神徳を知っていないなあと、思うんです。
  第一お酒を飲んではいけない、キリスト教の場合ね、例えて申しますとね
仏教では、生臭気をとってはならない、とゆうように、なら、お道の信心では、お酒でも、ねお神酒さんとしていただくわけです。生臭気も、魚も頂だかれれば、肉類も食します。
  結局、釈迦も、キリストも、真の神徳を、一部では知ったにしても、神徳の、言うならば、すべてを知っていなかった、と言うことになるのです。
  牛肉でも、魚でも、神徳の現れ、しかも、人間氏子に与えたいという、天地の親神様のお恵みなのです。
  そのお恵みを分からない、生くさけを取るのにびくびくしながら頂くのでは、おかげは頂けない、ああ飲んじゃいけんのだけれど、飲んでると、お酒でもです、もちろん神様は、教祖様は、御恩恵、おかげと言うて、大酒大食は、絶食の元になるとも教えておられます。  お神酒の間はありがたいが、お酒になると、酔狂が出ると、おっしゃるように、酔狂が出たり、食べすぎて胃腸を壊したり、とゆうことでは、御無礼になる。
  けれども、合掌して、受けられる限り、有難いな勿体ないなと、頂けれる限りは、一切がおかげ、いや、これもおかげと頂けたとき、本当の信心が分かったとき、それを、合楽では、一切の事柄に、御の字をつけて頂けば、おかげじゃと、言うことです。
  金光教の信心をさせて頂きよっても、私は、ここんところのね、御の字をつけて頂かないで、信心するものは、飲んじゃならん、食べちゃならん、と言うことでは、ないですけれど、こんなことをしてはならないと言ったような、いや、金光大神の広い世界に縁を頂きながら、そこに住み着ききらんでおるのじゃなかろうかと、思うのです
  仏教の言葉の中で、三界と言うのがあります、私も、よくその意味は分かりませんけれど、私流儀に解釈すると、仏教の人が、キリスト教のことを、もう、最低の宗教だと決めつけている、本を読ませて頂いたんです。
  キリストは、因縁と結うことを解き明かしきっていないというわけです。
仏教、お釈迦様は、過去、現在、未来までも、厳密に解き明かしてあると、こういうわけです。だから、解き明かしてあることは、確かに事実です、そしてそれが、解き明かされて分かったところから、いよいよ、仏教の難しさが、または、キリスト教の難しさが、言わば、本当にキリスト教では、救われない、キリスト教では、本当に、助からない、助かれないと、この所まで至っておるのです。
  お釈迦様の言われるとうりにすれば、助かるかもしれません、ね、だから、因縁のために苦しむ、もう、この世では、仕方がないと諦める、締観ですね、諦め的なものが、仏教では、もう、おしまいです。だから、この世で、霊をしっかり磨いといて、あの世にいかにゃというのです。
  キリスト教なんかの場合でも、原罪という罪がある限り、キリスト教徒は、もう、助からないです。
  キリスト教で言う、原罪というものが、ないものはない。罪を犯していると、こう、言うのですからね

  教祖の場合、金光大神の世界に入りますと、詫びれば許してやりたいのが親心じゃと、こう仰せられる、本気で、こちらがお詫びをする、悪いと思うたら、詫びる気になりゃ、許してやりたいのが、親心じゃ、いや、今までは、詫びねばならないと、言うことにです、お道の信心をするものが、真の神徳が分かったらです、お詫びをすることではない、お礼を申し上げること、御の字をつけて頂けば、有難いという世界が、金光大神の世界です。  もうですね、本当にね素晴らしいですよ、金光大神の世界は、けど、そうゆう世界に住みながらもです、まだ、その、お互いが、お詫びをしよるけれども、本当のお詫びになっとらんから、許されとらないとゆう、心があって、おかげを頂ききらんでおる、金光教の信者が、どれだけあるか、実は、わからんのです。

  私は、昨夜、お夢を頂いた。皆さんに、発表のできないような感じの、お夢ばかり、私は、頂だいとりました。まあ、私だけが頂だかんならん、
  昨夜のお夢も、そんな感じでしたけれども、今日の御理解の、たまたま、道の御神徳を知らぬことと、教えられるのですから、これも、真の御神徳の現れとゆうこと、

  何か、陶器会社ですね、それも、酒井田柿右エ門、有田焼の、代々続いた、名人がおります。今は十三代ですかね、その人の工場を、私でなからなければいけない、私でなからなければ、ほかのものでは、とても、よう、入りきらん、と言うので、それも、誰か分かりませんけれど、私に、一遍、その工場を、視察してきてくれと、見てきてくれと、それはね大変難しいところがあるから、度胸がなからなきゃ、いけない、と言うわけです。
  受付のところで、その、工場に入ろうと思うて、、その受付がおるらしいのですけど、私が、行ったときには、誰もいなかったから、まあ、すーっと入った。
  入ってみて、驚いたことは、もう、広いの、広いの、というて、もう、白一色なんです。いわゆる、有田焼の、白磁と言うのですかね、柿エ門とゆう人は、濁し(平)という、白と又、その、違った白です、ね。
  もう、その茶碗類が、もう、それこそ、もう、見渡す限りの工場です。そして、それこそ、大きな、落ち込んだら大変だろうと、思われるような、大変なね白の、やっぱり、薬とゆうのでしょうね、茶碗の、それこそ、白の何というですかね、プールのような、大きなものがある、そして、私が来たことをそうゆうね広い大きなところじゃから、誰もいないのです。
  それから、こう、地下というても、地下も、こう見えとるんですけれども、向こうのほうで、誰かが、一人、私が来たことの気配を感じたらしくて、おられますから、私は、そこえ、そしたら、そこんところで、この白一色の、白衣に、着替えじゃならないので、私は、そこで着替えて、そのところえ行くまでが、いうならば、スリルを感じながら、もう作った皿が、ずーっと積み上げてある、ちょつと当たったら、それが倒れそうであったり、まあ、地下のほうへ、降りていくためには、梯子があったら、その梯子が大変難しかって、いつも、ひやひやしながら、ちょうどその人のところまでやらせて頂いたら、その人が、やっぱり、私と同じ衣装をしておる。
  そして、私が、こうしてこらせて頂いたことを、伝えさせて頂きましたら、そのことには答えずに、まあ、見て、感得しろ、ずーっと見て回って悟れと、こうゆうふうに行って、自分はその、大きな工場の、白一色の茶碗ばつかりなのにもかかわらず、その人は、絵筆をもって、その茶碗に、色付けをしておる。
  それが、ああ、この人が、柿エ門という人だなと、私が思うたことは、柿の字が書いてある、ね、これも、この絵の具で、こうゆうような色で、この、いわゆる、柿エ門独特の絵画ですよね、柿色です。

  ははあ、私が、一番はじめに、嫌いだったものが、好きになったとゆうのは、この柿色です。
  色の中では、一番嫌いだった、その一番嫌いな色が、今、一番好きとゆうことでもないですけれども、好きな色になった、まあ、嫌いな色がなくなったとゆうことです。

  嫌いなときは、それに御の字をつけていただけんです、ね。嫌いなもの、嫌いなものには、なかなか、お恵みのもの、御神徳の現れとは、理屈じゃ分かっても、心からおた、これからは、白一色の、深さ、広さが、分からなければならないが、それは、教えるわけにいかんから、これだけ、たくさんな白一色でできておる工場を見学して、それを体得しなければならないと、こう、いうわけです。
  それには、大変な、危険を感じるようなところを通ったり、はらはらしながら見て回って、白色の、色の深さや、陶の秋。
  というような、おかげをいただいてとゆうことであります。とにかく、私がおもいます金光大神の世界は、もう、一切がおかげです、それを聞いたからというて分かることではないです。やはり、自分が体験しなければいけんです。

  問題はね、御理解第三十八説に
「女が菜園に出て菜を抜くときに、地を拝んで抜くような心になれば、おかげになる。また、それを煮て食するとき、神様頂きますと、いうような心あらば、当たることなし」と。  信心しよって、こげな午前ものを食べちゃいくまい、信心しよって、こげな酒を飲んじゃいくまい、これは、もう、心にさわるから罰かぶる、仏教的に罰かぶるようになるです、ね。それが、お釈迦様の世界です。
  なら、金光大神の世界はです、神様が、人間が、幸せになることのために、作り与えてくださった、ということになる時に、神様頂きますという心があれば当たることなしと、だから、仏教信者は罰かぶるですけれど、金光様の信心は、おかげを頂く。金光様の信心をしよってもです、それを有難く頂けなかったらやはりそこに神様のお気障りとかと云う事は自分の心に障っとりますからお気障りになるのです。今日の御理解は大変に難しいもう金光教で、ここの所を解かせて頂くのは私一人じゃなかろうかと云う位に実は云うたら素晴らしい事です。ただ金光大神の世界というものは、あれもおかげであったこれもおかげであると分かると本当の信者だと言われます。
  これもおかげであった、とゆうなかにです、御の字がつけられないもの、今までは、今まではなら、柿色じゃないけれども、好きになれなかった色、というときには、それが、いかに、お恵みの柿色であってもです、もう、心にさわつているから、それではね必ず障るです。

  神様頂きます、というような心あらば、当たることなしと、当たるんです、それが、よく食べ物が当たるというでしょう、あの食べ物が当たったじゃろうと、だから胃が痛むのじゃろう、腸が痛むのじゃろう、と云う事なんです。あたっとるわけです。
  だから、こちらの頂き方がです、神様頂きますとゆう心あらば、当たることなしとゆう信心がわかったら、もう、この世の中に、いっちょも、その、ご恩恵でないものはないと、いうことになるです。
  ただし、ここの所は、どうでも、なら、仏教とキリスト教を例に引かなければ、わからないことを、今日、聞いて頂いたんですけれども、仏教では、もう、絶対のこと、仏教信者は、この殺生とか、いうならば、生臭気をとっては本当の、仏さんの救いを受けることはできないと、必ず罰が当たると、いうことになりますね、仏罰という。
  キリスト教の、なら、信者がです、お酒を飲んだらです、もう、言うなら、戒めに背いたことになるですから、それが、罰になるというのです。
  なら、同じものを食べたり、同じことしながらです、なら、金光教の信心なら、金光教の世界に住んだら、神様頂きます、と云う心を開かせて頂いたら、神様のご神徳ということが、本当の意味で分かる。だからご神徳の現れということの中にはね、まあ、その範囲の広さというものは、もう、どうにもね見当がつかないほどです。

  そこで、神様頂きますと云う心あらば、と云う、その頂きますと云う心になるには、どのような信心をすれば開けてくるかとゆうことでございます。神様頂きますという心あらば、当たることなし。

  私どもは、本当に、おかげ頂いておる、そのおかげ頂いておるおかげを、おかげと頂ききらんで、そして、それを言うならば、心に障り、心に当たって、当たられ通しに、やっぱり苦しんでおるような場合がたくさんあるように思いますけど、
  これは、なかなか、一足飛びに頂けることではない、分かるということではない。
問題は、もう、こげな色は嫌いだと、色の中では、この柿色が、一番嫌い、ね、これは、私のことです。
  それが、いつの間に、どうして好きになったか、それがわからんです。それで、以来合楽でいろんなカラーのものができる時には、柿色、教旗なんか全部団体の旗なんか皆、柿色でしょう、何か出来ても、ああ、親先生が柿色が好き、バッヂなんかも柿色でしょう
      以前なもう、ほかの色はよかばってん、柿色なら、もう、すかんというとが、好きになれる、というまでの、私は信心が必要だとゆうことになるのです。
  それもなら、好きになろうと勤めたから、好きになったのじゃない、心が段々段々大きくなり、豊かになり、有り難うならせていただいとったら、あれもおかげであった、これもおかげであった、と言うこと、素晴らしいと分かったときに、初めて、神様頂きますという心が生まれてくる、だからあたらんのです。

  親鸞上人様が、肉食妻帯をなさった、仏教では、破壊僧のように云うわけです。だから、名僧列伝の中には、親鸞は、入ってないそうですね、仏法の破壊者だと云うわけです、異端視しているわけです、けれどもたくさんの人が、生き仏さんのように慕って、たくさんの人が助かった。
  云うなら、妻帯もおかげなら、肉食もまた、有難がたしと、云はば、そうした、悟りの世界に親鸞は住んだのです。
  と云うて、なら、弟子が、生臭気を食べたりしたというので、破門をしておるとゆう事実もあります。
  問題は、有難いという心が頂けずしておいて、それを頂いた分では、心に障りがあるから、必ず、当たるということになるから、だからネもう、実に微妙と言えば、これほど微妙な、デリケートなことはない。
  それも、勤めたからなったのじゃない、私がね柿色が嫌いじゃから、もう、子供のときから嫌いだった、信心しよってもやっぱり嫌いじやった。それが、いつの間にか、柿色も素晴らしい、とゆうことが分かってきた、今まで嫌いだったから、余計好きになったような感じで、皆さんが柿色を、合楽の場合、柿色を選ばれる、所まで、言うならば、有難く受けられるようになったことが、言えます。

  あれもおかげであった、これもおかげであった、と言うことは、あの色も美しいが、この色もまた、美しいと、あの人も素晴らしいが、この人も、人の真似のできんごと素晴らしい、と言うことがです、皆が良い人に見えた時に、初めてありがたく頂くことができる、神様頂きますと、云う心あらば当たることがないという、当たらない世界、それを金光大神の世界というのです。

  そこでです、  「白という、色の深さや、陶の秋」
と、そうゆう神様の、深さ、広さが、分かったときに、今日の御理解の、信心する人の、真の神徳を知らぬこと、知らなかったことの中にです、真の神徳が、このようにも広い、広大なものである、金光大神の世界というものは、こんなに素晴らしいんだということが分かる事になりますが、それを実感として、それが好きになれ、それが、実感として、神様頂きますと、云う心が生まれてくるまでの、だから、修行が必要とゆうことになります。  そこで、先日から頂きますように、
                「御僧や、トクサの花を、耳掻きに」
と、お坊さんが、トクサの鼻でネ耳をかいておられる情景を句にしたものです、トクサというのは、磨きの植物ですね、

  次には、      「耳掻きの、ありて借りける、日向ぼこ」
と、いうのがあります、お縁なら、お縁先で、日向ぼっこしとったら、そこに誰かが、耳掻きがおいてあった、と、だからそれを借りて、耳を掻いたと、こう言うのです。

  もう、本当に極楽ですね、目を細めてから、それこそ、日向ぼっこしとってから、耳を掻いたり、掻いてもらったりして、おる情景を、思うただけでも、だから、私どもが、生身をもっておりますから、やはり、信心の精進としてです、磨く材料であるものを、気持ちの良いための耳掻きに使うようなことであってはならない、
  これは、これによって、磨かしてくださる、これによって改まらせてくださろうとする、神様の働きを無下にしてはならないと思います。

  次に、神様が、楽はさせねばおかんという、働きが生まれてきます。
たまたま、ちよっと日向ぼっこをしておったら、そこに、耳掻きがあったというような、お繰り合わせである。

  そこで、なら、私ども信心させて頂くものはです、まずは、楽はせんぞと、言ったような修行に本気で取り組ませて頂く、そこから、楽はさせにゃおかんというような、働きが生まれてくる。
  その楽をさせずにはおかんとゆう、働きが頂けたとき、神様のご都合、お繰り合わせ、いわゆる、広大無辺の神様の思いにふれた思いがする。なるほど、神様のご神徳ということがです、初めて、真の神徳とは、こうゆう事だということになる、自分から求めて楽をしようとしたときには、ああ、これも神様のおかげで、おかげを頂きますと云うて合掌しておっても、心のどこかにひっかかるものがある。ひっかかるとゆうことは、もう既にです、当たることになるです、必ず。
  ほんに、こうゆう贅沢して良かろうか、と心に思うたら、心にあたっとるわけです。たとえ、それが、どんなに贅沢であっあってもです、目の前に神様がもって来てくださる程しの、言うなら、おかげを頂いたところに、自分は食べようと思わなかったものが、それこそ、百味の御食なら、百味の御食を目の前にしながら、本当に有難い、勿体ない、と頂く、心あらばあたることはなし、同じ食物でも、あたったり、あたらなかったりすることが、わかるでしょう。
  自分から求めて、今日はいっちょ河豚を食べようかと、云うて食べた、おいしい、うまいけど、こげん贅沢して良かろうかと、ちいと贅沢しすぎ捨てて、そして、お芝居を見に行ったと、言うのですから、
  ところがね、いついつに、東京歌舞伎が来ます、観覧券をお供えする、そして、車までもってきて、さあ、どうぞ、と云うて、お芝居の招待を受けたとするか、もう、それこそ、勿体ないなあ、有難いなあ、神様は、心の底から底まで、神様は、見抜いてござる。
  こちらが、じっと辛抱しとりゃ、神様が楽はさせにゃおかんという働きが始まって、それを頂くときに、初めて、神様頂きますと、云う心が生まれてくる。
  だから、そうゆうおかげが頂けるまでが、信心辛抱なのです、これはね、完璧に、言うならば、真の神徳を知らぬこととおっしゃる、信心するものの、真の神徳を知るためには、そうゆう、一つの過程と、言うものが生まれてこなければならぬ。
  私が、一番嫌いであった、柿色が好きになるまでの、私の、信心というものが、いつの間にか、それが、好きになっておる、おったというような、お繰り合わせを頂いたときに、あの色もよいが、この色もまた、素晴らしいとゆうことになる時、その心が、神様頂きますという心。、

  対人関係のあってもよし、日々の私どもの日常生活の上に、起きてくる事柄の上にも、辛いこともありゃ、楽なこともあるけど、その辛いときにはです、それで一つ磨かしてもらう心、それによって改たまらせて頂くんだとゆうことになる。それを神様の自然の働きとゆうものが、耳掻きのありてかりけり日向ぼこ、とゆうような、素晴らしいタイミングの中に、素晴らしいお恵みの中に、それがなされるときに、心の底から、本当に神様ちゃ、本当に勿体ないお方じゃなあ、このようにしておかげを下さるんだと分かるときに、有難いとゆう心が湧いてくるのです。そこには何にも当たらない世界、云うなら、何を飲むにも、何を食うにも、そこには有難いことしか答えに出てこないとゆう世界があるのです。そうゆう世界を金光大神の世界というのです。
  世の言うなら宗教界と云いましょうかね、たくさんの宗教が、その中でも、なら、キリスト教とか、仏教とゆう大きな宗教がありますけど、まるきりある意味合いでは、人間を苦しませるために、その宗教があるような感じすらするところがございますね、教えるけれどもそげなことは、とても守られんと云ったことを、なら、十戒とか、五戒なんかにあるのです。
  ですから、まるきり、苦しませるために、その教えがあるような感じがする。そこに金光大神御出現によって、そうゆう自由無碍な世界が開かれた。そこでそうゆう世界に住まわせて頂くためには、なら、金光大神の言うことに背かぬようによく守って信心せよというところが必要になってくるのです。なら、金光大神の言うことに背かぬようにと云うことはです、金光大神の言われることには、決して私どもがなそうと思えば成せれる修行だけしかないということであります。

  芝居好きな人が、神様から許されるまで暫く、お芝居を見るなと言うても、そげん難しいことじゃないでしょうが。
  今日は私は、信心する人の真の神徳を知らぬことと云うことを今まで説きえてなかった神徳の面を今日は聞いて頂いた。
  大変難しい、これは大変難しいです。今朝私がお夢を頂いた中から、それでもそんなにびくびくしないでよいのですけれども、そこが人間ですから、びくびくしながら、その工場を見て回っているところも通るけれども、そのスリルがまた有難いのです。

  最近大祓い信行が言われる、更に実行なさっておられると思うですが、これは言うなら、お道の信心で言う、言うなら三昧境を持つためです、三昧境です。
  あの釣り三昧とか、茶三昧というですね、信心三昧、私は信心させて頂いておるものは、この三昧境にならないおかげを頂くから、おかげが有難いというのは三昧境じゃないです。  魚を釣っている人がです、魚がどんどん釣れるからです三昧境じゃないです、釣れてん、釣れんでんじっとこの釣り糸を垂らしておる、そのこと自体がたのしゅうてたまらん、もう釣り三昧というのはそうゆうものです。
  信心の三昧境を私は、お道の信心によって聞かせてもらうところが、そこから一切が有難い、と云うなら神様頂だきますと云う心が湧いてくるのです。
 だから、どうでも信心信行させて頂いて、ね、大祓い信行をさせて頂いて、それこそ、無条件の、いわゆる、もうお道の信者としての、もうこれは当たり前の勤めなのです。そのお勤めをさせてもらう、あれを頼まんならんけん大祓いをあげた、と云うことじゃ決して本当のことじゃないです。

  ただ、神様の糧になられるもの、神様が、私は昨日ほんにお道の新聞が今度から金光新聞ということになりました。
  それが、ここに行橋から井手先生という先生が、今日もおそらくみえるでしょうが、今日は神愛会ですから、その方の息子さんが御本部に勤めているのです。
  その勤めてあるその先生が、新聞に書いておられるのにね、私が最近言っておる、神様が栄養失調中にです、辛抱できないことが辛抱できるのです。
  じ-っと釣り糸をたれておる、そこに魚が釣れるから面白いのじゃなくて、釣り糸をたれておる、そのこと自体がありがたいと云う信心です。そこからね、神様のいよいよ深さ広さ、今まで感じていなかったところに神徳として頂けれる世界があるということ、

  お互いが金光大神の世界に縁を頂いたのですから、その金光大神の世界に住まわせていただけるようなおかげを一つ頂かなければいけません。
  今日はは大変長くなりましたけれどもね。
一つ今日の御理解を、これは皆さん今頂けることじゃないです。けれども、それをね、いつの間にか、その柿色が嫌いな色が、嫌いな柿色が好きになったというようなところを楽しみにね、一つ信心させて頂きたいと思うですね、どうぞ。